与謝蕪村ってどんな人?
江戸時代の俳人
与謝蕪村は1716年(享保元年)に生まれ、1784年(天明3年)に生涯を終えた俳人です。
1716年(享保元年)というのは8代将軍徳川吉宗の時代であり、1784年(天明3年)というのは10代将軍徳川家治(いえはる)の時代です。
つまり、与謝蕪村は江戸時代を生きた俳人です。
江戸時代の三大俳人の一人
さて、そんな江戸時代の俳人である与謝蕪村ですが、数多くいる俳人の一人というわけではなく、江戸時代の三大俳人の一人と言われています。
というと、「他の2人は誰?」と思うでしょう。
江戸時代の三大俳人、残りの二人は松尾芭蕉と小林一茶です。
文人画家でもあった。
また、与謝蕪村は俳句だけでなく、文人画家としても素晴らしい絵画をたくさん残しています。
(文人画家というとあまり聞き馴染みがないかもしれませんが、「文人画」というのは、絵を描くことを専門としていない人が余技として描いた絵のことです。よって、文人画家というのは絵を描くことを以外を専門としている画家のことです。)
与謝蕪村は中国の古典や歴史への造詣(ぞうけい)が深かったため、これらの知識が俳句だけでなく絵画にも大きく影響を与えました。
また、蕪村は42歳で京に渡り、そこから画家としての力を付けました。つまり、画家としてはかなり遅咲きで、40歳を過ぎてから花開いた画家人生でした。
晩年になると蕪村独自の世界観の絵画にたどりついたと言われています。
蕪村の絵画の特徴としては、「拙さ(つたなさ)」・「ぎこちなさ」が挙げられます。いわゆる「画家らしさ」を前面に押し出した流暢な絵画ではなく、「拙さ」と「ぎこちなさ」を持ったある種の不完全さを合わせ持った絵画だからこそ、当時の人々に愛され、そして今なお人の心を惹きつけるのでしょう。
与謝蕪村の生涯
1716年(享保元年)、摂津国に生まれる。
与謝蕪村は、1716年(享保元年)に摂津国東成郡で生まれました。
摂津国というのは、現在の兵庫県南東部から大阪府北中部の位置です。東成郡はその中でも大阪府側だったので、与謝蕪村は現在の都道府県で言えば大阪府の出身ということになります。
20歳で江戸へ。
与謝蕪村は20歳で江戸に出て、早野巴人(はやのはじん)の下で俳諧を学びました。
(俳諧というのは、俳句・連句・俳文の総称。)
27歳で東北を周遊する。
松尾芭蕉に憧れていた与謝蕪村は、27歳の頃に芭蕉の足取りをたどりながら、東北を周遊しました。
29歳で「蕪村」を名乗るように。
29歳になり、「蕪村」と名乗るようになりました。
42歳で「与謝」を名乗るように。
42歳になり、「与謝」を名乗るようになりました。
1784年(天明3年)、68歳で没。
与謝蕪村は1784年1月17日(旧暦で言うと天明3年12月25日)に生涯の幕を閉じました。
辞世の句は、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」
与謝蕪村の作品
俳句
さみだれや大河を前に家二軒 (慶應義塾中等部)
絵画
鳶鴉図(とびからすず)